えーっっっ!!
ベントン生きてたの!?

すみません、パトリシア・コーンウェルの、検視官シリーズです。作者名だけで買っても、失敗しない作者の一人(宮部みゆきと違って)。

ありえない…スカーペッタと一緒に、ベントンのお葬式まで(心の中で)したのにーっっ
まだこの黒蠅は、読み始めたところだけど、“ベントンは…”というくだりで、「えっ?回想シーン?」
と思ったら生きてるんだもん。ひーっスカーペッタかわいそすぎる。

はじめて「検視官」の一冊目を読んだときは、普通に推理小説っぽいイメージで読んだから、「えっ、これだけ振っておいて、こんなやつが犯人?」と思ったけど、いまや登場人物1人1人がすごすぎて、むしろ背後の事件は、単に彼らの日常の世界として、必要な舞台設定というだけに思える。

結果、いまや事件がどうなるかより、主人公たちがどうなっていくか、どう生きているのか、に関心を持って読み続けている感じ。スカーペッタ若返ったりと、ちょっと設定的には厳しいけど、主人公たちの生き方を見ていくほうが楽しくなっているから、もうしょうがない、サザエさんワールドと割り切ろう、というのが正直なところ。やっぱり終わっちゃったらさみしいし。

(一度BBCの特集でインタビューされてるのを見たけど、かなり強そうな、キャリアウーマン風の女性でした。自分で買ったヘリのスカーペッタ号も運転するそうですし)

森博嗣

2005年1月17日 読書
今日も引続きいい天気!
今日はダンスもないし、だんな様も仕事で出ていたので、やっとゆっくり昼まで寝て、そのあとも青空の下で読書(もちろん日陰)などして、のんびりすごしました。

今日読んでいたのは森博嗣の犀川先生のシリーズ。
京極さんはシリーズ2作目のころから読み続けてきたけど、「文系の京極、理系の森、っていわれてるんだよ」といわれて、興味をもったので、1年くらい前から読み始めた。

確かに、面白いと思うけど、今のところ、(森博嗣はシリーズ最後までまだ読んでいないものの)私は断然京極さんに軍配。

私も完全なる文系人間だから、京極さんの思考のほうが、ずっとしっくりくる。中善寺さんとならつきあいたいかもしれないけど、犀川先生とはあんまりお付き合いはしたくない…
というか、元カレが、犀川先生とまったく同じような理系の天才だったので、懲りたというのが正解…

犀川先生やその知り合いの理系人間たちの思考方法を見てて、文系人間との違いを目にするたびに、「ああそうそう、だから私とは分かり合えなかったのよね」とか「そー!たしかによくこんなわけわかんないこといってた!」とか、元カレの研究室の知合いにあったとき感じた奇妙さとか、言葉で理解しあおうとしない彼らのナゾの思考方法とか、そんなものがまじまじと思い出されて…
(それでも分かり合えないなりに、そのときは好きだったけど、常にそういう絶対分かり合えないストレスはあった)

そうして見てきた研究所にいる理系人間たちは、森さんのように自分たちのことをこんなふうに言葉で表現できる、またはしようとする人はあまりいないと思うので(犀川先生の助手が、いっさい挨拶をしないのにも現れてるけど、理系人間は、言葉を軽視しがち。元カレとけんかして黙り込まれたとき、「なんでもいいから、今あたまで考えてること口にしてよ!」とキレたら、「いま言葉使って考えてなかったから無理」と本気でいわれたときのショックはいまだ忘れられない)そういう意味で、森博嗣は理系の思考方法を、文系の言葉に翻訳して伝えてくれる、ものすごく貴重な存在だと思う。

復活

2004年10月6日 読書
夜ヒマなので、引っ張り出して読み返してます。なんでロシア文学を、他の西洋文学より面白いと思うのかは自分でもわからないけど、アンナカレーニナとか、罪と罰とか、そのへん、結構好き。初恋は苦手だけど(どうしてもジナイーダが好きになれん)。

復活を読むといつも思うのは、“このくらい底辺(農民とか)のレベルが低いと、やっぱり社会主義しかなかったかも…”ということ。ワイルドスワンでも、中国の人民のレベルの低さに、同じこと思ったけど。

2500年前のギリシャ人、2000年前のローマの民衆なんかのが、よっぽど賢くて、いい生活してるでしょ。19世紀〜20世紀にかけて、もっとも不幸で無知だったのが、結局社会主義にならざるを得なかった国の貧乏人なんだろうなあ…
確かに、私がネフリュードフ(主人公)でも、ここまで民衆が貧乏、かつ無知だったら、とりあえずは社会主義的でもなんでもいいから、なんとかちょっとでも底上げしてくしかないなって思うかも。

それにしても不思議なのが、ロシアとか、中国が、どうして資本主義、自由主義になった国々のように、ちょっとずつ民衆を育てられなかったのか。
イギリスなんかは独立自営農民ヨーマンリー(←世界史の教科書みたい)が育ったから、とかいうけど、それだけじゃないでしょ。日本の小作農とかだって、けっこう虐げられてたり(年貢とか)してても、ちゃんと近代化してったわけだし、そうやって、個々の国の事情はあるにしても、けっこう大国だった中国とロシアがいまだに遅れている国になっちゃったのって…

中国なんて、一時までは、すごくすぐれた文化と歴史を持ってたわけなのに、近代になるにつれ、より無知で、野蛮な国(大躍進や文化大革命みたいな)になっちゃったし。これだけ徹底的に、自分の国の文化財を破壊しまくった国民は中国人くらいなものでしょう。(他人の文化を破壊することは世界中でよくあっても)。

とにかくネフリュードフのいう(つまりはトルストイのいう)、囚人というのは、単に金持ちが今の制度を自分たちのために維持するために、都合悪い人として生み出されてるだけだっていう考えは、当時に感情移入して読むとは画期的だけど、やっぱり社会主義になったような国にしか、基本的には当てはまらないなあと思います。

ロシア文学って奥が深い…(名前が難しいだけじゃなくてさ)

↑すみません、西洋史学専攻なもんで…

負け犬の遠吠え

2004年9月2日 読書
負け犬の遠吠え

すみません。ブックレビューじゃありません。まだ読んでないので…。誰か日本から送ってくれーー
でも、最近、これ系の話をよく聞くので、読みたいなあーと思ったわけです。読んでないので話題に参加できん。


私は、別に絶対結婚したい!とか一度も思ったことなかったけど、それでも結婚していない人の淋しさみたいのを、ふと見ることはあった。

日本で働いていた会社は、早くに結婚退社する人が多くて、結婚できずに(と言われる)いる30代の人は、明らかに“お局”扱いだった。
(でも、結婚していない50代の男の人もいて、その人も、“それだけ年収があるのに、何故結婚できないんだ…と同じく言われていたけど”)

友達の結婚披露宴なんかにいくと、夫婦で来る人がほとんどになってくる。NZでは、まだ“デファクトパートナー”という、結婚しなくても法的な権利は結婚してるのと同じ、という制度があるし、みんなパートナー、という言葉だけで納得するけど、日本だったら、そうはいかないしね…

この年になると、まわりで結婚する人も増えて、家を買うとか、子供を作るとか、庭をどうするかとか、そんな話がよく出てくるけど、そういう話題に参加できない。

 周りで、結婚してない50代くらいの知り合いがあきらかにさみしそう…

こんなとこでしょうか。

でも、私は前に書いたけど、結婚してるとかしてないとか、そんなこと全く関係ないNZの社会がすき。魅力的な40代くらいの人も会社にいっぱいいる。
日本みたいに、“30代、未婚、子なし”ということに、なんの悪いイメージもないから、本人たちも自分をそういう風にネガティブに見ることもないし、周りもみないから、魅力的なままで、いられるんでしょう。

NZにはいっぱいいる、結婚してないけど、ボーイフレンドもいるし、幸せ、というごく当たり前の30代40代(そこに、仕事では充実してるもの、とかいう言い訳すら必要ない)が、何故日本にはいないのか。

それは、ただ単に、まわりがその生き方に、“ネガティブ”なものを見てるから。
そしてその本人たちも、自分の生き方が、そう見られているということを否応なしに自覚させられるから。

 この本は、確かに日本人の中にすでにあって、多かれ少なかれ、ちょっとは“なるほど”と思うような差別に焦点をあてたから、話題になったのだろう。

実際、多くの私たちの中に、すでにある、生物的に、文化的に、すぐにはどうしようもない差別の意識というのはある。
でも、それをはっきりといわないうちに、だんだんそうした差別の意識が薄れてきて、差別の存在さえ知らない人も増えてきて、そういう土台ができれば、それがふとしたきっかけで改善する、多分今回の韓国ブームのような事態がおこることもある。

でもこの本では、そういう、できれば段々となくしていったほうがいいようなある人たちに対するネガティブなイメージ、ある種の差別を、これだけはっきりとした形で、“あんたたちは差別されて当然よ”、と改めてつきつけ、差別しているほうにも“やっぱりそれは負け犬と思って当然なのよ”と言ってしまったことは、日本の女性差別なんかに対しての、無意識下のイメージの改善を、また何年も遅らせたかもしれないとは思う。

ま、読んでないのに言うのもなんなんですけどね…

後巷説百物語

2004年8月31日 読書
やっと読みました。いつもありがとー北村さん!
こんなに重い本をおくってくれて…
*******************
なんてすごいんだー京極さん!!
これが直木賞を取ったからといって、これだけ読んでは絶対にだめです。これがどうしてこんなに切ないのか、ちゃんと又一さんの話を、「哂う伊衛門」、「巷説百物語」「続巷説百物語」とちゃんと読んできた人じゃないと全然わかりませんよ!これだけ読んじゃ駄目です!

さらに、できれば、京極さんの中善寺さんのシリーズをちゃんと読んでいないと、わからないことも出てきます。
和田和尚や由良さんにこんなとこで出会うなんて〜。

私たちの生きているこの世界では、単にお話の中のものとしか思えない江戸時代やお化けや、そうした全てのものが、昔のこととして独立してあるのではなくて、ほんとはずっと、こうやって生きつづけて、今でも私たちの、この生活に、ほんとにつながってきてるんだって、全シリーズの歴史を通して京極さんは訴えてきてる。

小豆洗いにはじまった百介の、江戸時代の百物語が、こうやって文明開化まで生き、そうしてそれがまた戦後の中善寺さんたちの時代までこうして生きていくなんて。私たち日本人の中で、すっぽり抜けてしまっている、でもほんとはそこからつながっているはずの、知らない記憶。

言葉にしちゃうとうまくいえないけど、ずっと全部読んできた人には、それが感じとれるよね。

それから、百介が、初めて小夜ちゃんのことで又一に頼られて、涙を流すシーンで私も泣いた。
シリーズの最初から、いつしか又一さんとその世界に憧れて、憧れて、でもその世界に行く勇気はなくて、結局憧れ続けたまま、又一さんにおいていかれてしまった百介(つまりは感情移入している私たち)の、前巻の最後で一度は消えてしまった又一さんへの懐かしさが、痛いほどよくわかる。

是非、全部読んでから、これは読んでくださいね!
(純粋に1冊の本としては、続巷説百物語のほうがおもしろいかな、と思うけど)

毎回思うのは、京極さんは、自分のキャラへの愛情が半端じゃないということ。だから、私も、同じように彼らを愛してしまうのだとおもう。

ぼんくら

2004年7月26日 読書
正直言って、宮部みゆきを本気で面白いと思ったことはあまりない。(火車だけまあまあだった)
どうしても、読んだ後が物足りないのだ。
本格的な推理小説なら、本格的な時代ものなら、このくらいは面白いと思って読みたい、というのに、いつも足りない。
(反対に、いつも期待しているそれを満たしてくれるのは彼女と仲良しらしい京極さん)

日本にいたら、多分買ってまでは読まないが、本の手に入りにくいここで、比較的出回っているので文句いってる割には読んでいると思う。

この本も、多分、中学校のころにでも読んだら、面白かったかもしれない。

ストーリーがつまらないのでもないし、時代考証がひどいというわけでもない、登場人物がイマイチというのでもない。でも、いつも、何かが物足りない。
これだけの量のものを読んだら、このくらいはあるだろう、というような満足感とか、読後感とか、そういうものが足りない。

彼女の本がよく売れている理由というのはなんだろう?

蛇にピアス

2004年7月23日 読書
駄目だ。
主人公の女の何もかもが気持ち悪く、感情移入させて読ませようというものではないにしても(えっしてるの?)、不愉快さしか残らない。
さわやかな昼休みに読んだことを後悔(すなわち1時間以下で読み終わる)。

別に、この手の小説というのはあってもいいと思うし、面白いという人がいてもいいとは思うけど、もしも、この本を40歳の著者が書いてたら、芥川賞なんてあげる?

自分がこの著者の母親だったら、自分の子供がその歳でこんなもの書いたことにひくと思う。
(それが一番の読後感)。

あまりに私の評判がイマイチなので、この本の、他の人の読後感を読んでみたけど、

>自らの血を流すことを忌避し、それゆえに他者の痛みに対する想像力を欠落しつつある現代社会において、本書の果たす文学的役割は、特筆に価するものといえよう。
(なんか“他者の痛みに対する想像力を欠落しつつある現代社会”とか、陳腐な感想だな…)

とか

>生きることの本物の痛みが、この小説からは感じられる。
(いったいどのへんが?ちゃんと親もいて、たった19歳で、生きることの本物の痛みの、何がわかるって??)

とか言う程度で、他の人の感想にも“あーなるほど、そういえばそうだなあ”というようなものもなく、やっぱりなーという感じ。
5月7/14合併号の週間朝日の中のコラムに、「世界の中心で愛を叫ぶ」、が批判されるとかいうことに関してこう書いてあった。

“…「話がつまらない」「小説としてダメ」という批評に対し、「読書という聖地に迷い込んできた頭の悪い蛮人を排除しようという情熱」と「逆批判」している。「普段から本を読んでるという自負がある人たちは、ベストセラーはくだらないものだというステレオタイプにとらわれて、条件反射的に無視したり批判したりするんです。」”

私はこの本がベストセラーとか、批判されてるとかそんなの知らずにたまたまこっちの知り合いが持ってたので、日本語の本は貴重だし、他の本を借りるのと同じように借りて読んだ。

そして、つまらなかった。

気に入ったら、私は何十回も何百回も、というか多分一生でも同じ本を繰り返し読みつづけるが、これはもう二度と読まないだろう。因みに、2度読む価値のないものは、一度も読む価値がないと私は信じている。

実は上に引用した内容には、普段から相当本を読む私もけっこう納得で、「あーちょっとそれはあるかも」と思うが、それが「世界の中心で愛を叫ぶ」がつまらないことのいいわけにはならないんじゃない?

結構マスコミに取り上げられたものでもいいのはあるもの。

ポッポ屋の2話目にのってた「ラブレター」なんて、あんな短いのに号泣してしまったし、マディソン郡の橋も相当感動してしまった(本のほうだけね)。

でもまだ読んでないけど、芥川賞をとった「蛇にピアス」の朝日新聞の1/4広告のキャッチに「本を読まない人にもすらすら読めるってクラスで評判でーす」みたいなことが書いてあったけど、これは普段から読書好きの人をうんざりさせるのには充分すぎるキャッチじゃない?

私が読まず嫌いするのは、伊豆なんとか急行殺人事件系のものだけだから、それでも、これもいつかは読むけど、それにしても、よっぽど普段読書しない人にしか向かないような本なのかよーとは思ってしまうね。この広告じゃ。
ria

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